2005年12月22日

継承問題を稲作に置き換えて考えると…

月刊WiLL1月号で上智大学名誉教授の渡部昇一氏が『あまりに拙速な女性天皇容認論』を寄稿され、そのなかで「種と畑」の例を披露されていたので、私は日本人にとって一番身近な食材“米”に見立てて「種と畑」の理論を考えてみたい。

天皇家に代々伝わる品種があるとする。仮に「キクヒカリ」と呼ぼう。「キクヒカリ」は苗床(母胎)で発芽し、然るべき時に水田に田植えされる。竹の園生の最も貴き水田が皇位であり、それに次ぐものとして宮家という水田がある。

基本的には一の水田の稲穂を収穫し、種籾を蒔き次代へつなぐ訳だが、時として不作で実入りが悪かったり、いもち病に罹る時がある。そのような時には二の水田(宮家)で収穫された種籾を苗床で育て、一の水田に植えるのが伝統的な「キクヒカリ」の栽培方法だと言えよう。

苗床は母系遺伝である。どこの家にも家紋があるが、女紋と言われるものには
A.その家に代々伝わる女性用の紋
B.嫁入りした女性の実家の紋
C.母から娘に代々受け継がれた出所不明の紋があり、苗床の理論はCとBに分類される。出所が不明な故に嫁ぐ時には生家の紋に塗り替えて送り出すのが日本の伝統と言えるのだ。天皇家に生まれた女性達は十六葉菊花紋印の苗床を持ってお嫁入りされる。性能は他の苗床と変わらないが、そこに種籾を蒔くことが一種のステイタスである。

先頃、黒田慶樹氏の元に降嫁された紀宮清子様が男子をお産みになると、その子は「カシワホマレ」、島津久永氏に降嫁された清宮貴子様の男児は「ジュウモンジコマチ」、東久邇宮稔彦王殿下に嫁された照宮成子様の男児は「キクヒカリ」である。

皇統外の天皇を認めるということは、「ウメバチ1号」「モッコウ2号」「タカノハ3号」「サイワイビシ4号」「ササリンドウ5号」「トモエ6号」「サガリフジ7号」「クマイザサ8号」「ゴショグルマ9号」「タチバナ10号」etc.を一の水田で栽培することになるのだ。「キクヒカリ」の為の水田から「キクヒカリ」が駆逐される。これを「時代の流れ」のひと言で受け入れてしまって良いのでしょうか?

直系継承に移行するのなら、伝統的な「キクヒカリ」専用の水田は休耕田にし、千年後の遺跡にしたほうが良いと私は考えます。即ち皇室制度を廃止して、王室制度へ移行するわけです。

日本人が古典を読み続ける限り、源氏物語の読者が
「頭の中将は Princess の子なのに何故 Prince じゃないの?源氏みたいに臣籍降下したの?」
と疑問を持つだろうし、変質した皇室制度を問題視する人間も一定数存在し続けるでしょう。

女子の継承を認めて、その婿に天皇家の血を受け継ぐ男系男子を迎えれば良い、と考える向きもあるようですが、皇室入りする男性がキクヒカリ種と認定される必要が出てくるし、実質的に男系の血が入れば良いと言うわけではなく、物事には他者を納得させるだけの形式も重要でしょう。国家の威信を保つ為には日本国民が認めるだけでは不十分です。

一般で「キクヒカリ」の増産をするのは難しいですし、血統の追跡調査も困難です。また、あらゆる特権も認められず、栽培奨励金も出ないようでは「キクヒカリ」の種の保存は絶望的と言えます。
posted by 鈴之介改め弥生 at 23:55| ☀| Comment(35) | TrackBack(30) | 皇位継承 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月14日

皇統断絶問題TBセンター始動!

皇統断絶問題TBセンターが開設されました。TBセンターを利用してのブロガー達の結束が期待されます。

寒い日が続きますね。ちょっと風邪気味で困っております。文章を考えにくいので、借りてきた皇室関連本を読んで勉強したり、引用箇所をメモ帳に打ち込んだりしています。
今後のエントリーでは女帝のシュミレーションをしたり、女帝の履歴書を作成したりするつもりです。

10(土)11(日)にBS9Chで「美の美術館〜アジア仏の美100選〜」を前後編で放送していました。CMなしのノーカットで計6時間の長編でした。日本の仏像もたくさん紹介されていたし、タイでは王太子が仏像の御身拭いをしている事が紹介されていました。政教分離教の狂信者が騒ぎ立てる日本では地鎮祭でも裁判沙汰になるのに比べて、正常な信仰心を妨げられない国家の穏やかさを羨ましく感じました。

私は日本は防衛や信仰の面でもっと「普通の国」になる必要があると思います。「普通の国」でなければ、国民の安全も、皇室の安泰も守られないと考えるからです。
posted by 鈴之介改め弥生 at 23:50| ☀| Comment(14) | TrackBack(1) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月09日

安定した皇位継承の為に 〜ハプスブルクに学べ・後編〜

さて、ハプスブルク家の継承問題を語る上で欠かせないキーワードは「神聖ローマ帝国」だろう。時代は10世紀後半、時のローマ教皇ヨハネス12世は教皇領土の拡大を目論み、周辺諸国に攻め込んだ。しかし、負けた上に攻め込まれ窮地に陥り、東フランク王国の国王オットー一世に援軍を要請した。オットー一世は援軍の代償として自分を古代ローマ帝国の後継者とし、ローマ皇帝として戴冠させるよう教皇に迫り、962年にローマでの戴冠式を実現させる。

ローマ帝国はフランク王国の後継帝国を意味していたが、13世紀には帝国としての実体を成さない名のみの帝国となり、七人の選帝侯による選挙での選出方法に切り替わると「神聖ローマ皇帝」の称号はすっかり名誉職に成り下がっていた。

1438年に108年ぶりにハプスブルク家から神聖ローマ皇帝に選出されたアルブレヒト二世が「何故選ばれたのか?」と問えば、「弱小領主だから選出されたのさ♪」と返ってくるような有様であった。弱小領主のハプスブルク家が20世紀までその命脈を保つことができたのは、結婚政策の賜物である。アルブレヒト二世の死後、帝位は又従兄弟のフリードリヒ三世が継承し、この皇帝が推し進めた結婚政策が功を奏したと言えよう。

フリードリヒ三世の息子のマクシミリアンはブルグント公国(現在のベネルクス地方)の跡取娘マリアと1477年に結婚した。二人の縁組はフリードリヒ三世と、マリアの父ブルグント公シャルルのあいだで話が進められていたが、次の神聖ローマ皇帝を示す「ローマ王」の称号を欲しがるブルグント公と、その野心だけは認められないフリードリヒ三世との折衝の最中、ブルグント公がスイス方面に出兵し陣中で落命する。ブルグントと言う絶好のネギを背負ったか弱い鴨マリアは、フランスに攻められ、公国の貴族達は特権を拡大することしか考えず、孤立無援の状態だった。故ブルグント公は「愛娘マリアの夫はマクシミリアンにすべし」との遺言を残していた為、マリアはそれに従いマクシミリアンを夫に迎えた。

マクシミリアンとマリアはブルグントを統治しながら結婚生活を始め、王子フィリップと王女マルガレーテに恵まれ幸福な結婚生活を営んだが、1482年3月にマリアは思わぬ事故に遭遇し、フィリップとマルガレーテを遺産相続者に定め、夫のマクシミリアンにその後見を託して逝去、ブルグント公家は断絶した。ブルグント公の領土はこれ以後ハプスブルク家が統治することになる。

マリアの死後、マクシミリアンの扱いがどうなったかと言うと、結果を見れば慇懃にブルグントを追い出されたかたちになる。マリアの存在あってこその共同統治者(夫)という考えが基にあり、マリアが没すれば彼はただの外国人と見なされた。皇帝位を継いでマクシミリアン一世となった彼は国家財政の基盤固めに奔走する。弱小領主の悲哀ここに極まれり。(再婚相手には不自由しなかったようだが)

マクシミリアン一世は二人の子供を共にスペイン(カスティーリャ=アラゴン連合王国)と縁組させた。フィリップは1496年にファナ王女を娶り、マルガレーテは1497年にファン王太子のもとに輿入れした。生来病弱なファン王太子は同年に逝去、懐妊していたマルガレーテはファン王太子の遺児を産むが死産だった。一方のフィリップとファナには6人の子供が生まれ、彼らが後のハプスブルクとスペインを継承することになる。

フィリップとファナからはカール、フェルディナントの2人の王子とエレオノーレ、イザベラ、マリア、カタリーナの4人の王女が生まれた。マクシミリアンは孫達の結婚相手をハンガリーに求め、ヴワディスワフ王のラヨシュ王太子、アンナ王女の姉弟と、カールかフェルディナントのどちらかとマリア兄妹を結婚させることで1515年に合意し、1521年にフェルディナントとアンナが、1522年にラヨシュとマリアが結婚し、二重結婚が完了した。

1526年にボヘミア・ハンガリー王ラヨシュ二世は対トルコ戦で戦士。後嗣が無かった為、継承権はアンナに移りフェルディナントにハンガリーとボヘミアの王冠が転がり込んできたのだ。フェルディナントとアンナは15人の子に恵まれ、その血統がこの地を帝国の終焉まで領有することとなる。マクシミリアンとマリアの結婚から僅か50年でハプスブルク家はオーストリアの小領主からブルグント公領(1477)、カスティーリャ王国領(1504)、アラゴン王国領(1516)、ハンガリー王国領(1526)、ボヘミア王国領(1526)、の広大な領土といくつもの王冠を保持するヨーロッパでも指折りの帝国となったのだ。

まさに結婚わらしべ長者と言えよう。
「戦いは他のものにさせるがよい。汝幸あるオーストリアよ、結婚せよ。
――マルス(軍神)が他のものに与えし国は、ヴィーナス(愛の女神)によりて授けられん。」

当時の有名なラテン語詩がハプスブルクの幸運を見事に表現している。

カールは神聖ローマ帝国皇帝カール五世となり、スペインとそれに付随する海外領土を息子のフェリペに相続させ、オーストリア方面の領土と神聖ローマ皇帝の称号を弟のフェルディナントに譲り渡し、巨大帝国を分割した。スペイン・ハプスブルク家はカール五世の玄孫カルロス二世(1700年没)の代で断絶し、スペイン継承戦争を経て、以後ブルボン家の統治に移る。オーストリア・ハプスブルク家レオポルト一世の末期にあたり、その40年後にはオーストリア・ハプスブルクの男系も断絶する。

二つの王家の男系が40年(僅か一世代差)で両方とも断絶したのは興味深い一致と言える。光格系の男系絶えし後、数十年で伏見宮系の男系が絶える恐れも十分にある。早目の血統保護政策が必要だろう、なんと言っても晩婚・少子高齢化の御時世なのだから。
posted by 鈴之介改め弥生 at 23:40| ☁| Comment(3) | TrackBack(3) | 外国史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月30日

安定した皇位継承の為に 〜ハプスブルクに学べ・中編〜

時代は19世紀末の1889年、フランツ・シュテファンとマリア・テレジアの四世孫、フランツ・ヨーゼフ一世は唯一の男子で、皇太子であるルドルフの死去に伴い後継者を選ぶことになった。皇帝にはフェルディナント・マクシミリアン、カール・ルードヴィヒ、ルードヴィヒ・ヴィクトールの3人の弟がいたが、ハプスブルク家の継承権を放棄しメキシコ皇帝となったフェルディナント・マクシミリアンは1867年に処刑されており、継承は順当にいけばカール・ルードヴィヒの長男、フランツ・フェルディナントが継ぐだろうと思われた。

ルドルフの死により、俄かに継承者として脚光を浴びたフランツ・フェルディナントは、後の君主としての教養に乏しい面があり、それを補う為に世界各国を旅行した。1893年(明治二十六年)8月には日本にも立ち寄り、賓客として歓迎を受けている。継承者としての研鑚を積むフランツ・フェルディナントの結婚は帝国の行方を左右するものであり、ヴィッテルスバッハ家の王女やフリードリヒ大公の娘達など、花嫁候補が幾人も取り沙汰された。

しかし、フランツ・フェルディナントは意外な女性を妻に選ぶ。ボヘミアのホテク伯爵家の娘ゾフィーだった。ホテク伯爵家は旧家ではあったが身分はさほど高くなく、帝位継承者の妃として認められるような家柄ではなかった。皇帝はこの不釣合いな縁組に激怒したが、弟達もフランツ・フェルディナントの弟オットー、フェルディナント・カールも無能で、役に立ちそうなのがこの甥一人とあっては如何ともし難く、いくつかの条件を付けて結婚を認めざるを得なかった。

条件とは、ゾフィー・ホテクは大公妃の称号を得ることがない(王族として扱わない)。二人の婚姻により誕生した子供には帝国領土の継承権を認めない。等のハプスブルク家における「貴賎結婚」のルールを当て嵌めることだった。二人はそれらの条件を承知して結婚したが、ホーエンベルク女侯爵と呼ばれるようになったゾフィーを蔑視する風潮は最後まで続くことになる。

帝国内では正式な妃としての扱いを受けることのないゾフィーも、他国を訪れるさいは継承者の正式な妃として扱われることも多く、二人は好んで外国訪問を重ねることになる。オーストリア・ハンガリー二重帝国の名が示すよう帝国内で厚遇を受けるハンガリーを目の敵にし、妻の出身母体であるスラブに肩入れするフランツ・フェルディナントの言動は、皇帝と甥の軋轢を増す方向に作用した。

1908年に二重帝国に併合されたボスニア・ヘルツェゴビナの首都、サライェヴォへの訪問は両者の反目とバルカンの緊張が高まるなか1914年6月に行われ、大公夫妻は慎重を期して別行動を取りながらサライェヴォへ向かった。しかしサライェヴォでの歓迎行事の予定などは公表されていた為、セルビアの民族主義集団「黒い手」は要所に狙撃手を配置し、夫妻はガブリロ・プリンチプの凶弾に斃れる事となる。世に言う「サライェヴォ事件」である。サライェヴォの銃声を受けてオーストリア・ハンガリー二重帝国はセルビアに宣戦を布告。第一次世界大戦の幕開けとなった。

さて、フランツ・ヨーゼフ一世には皇后エリーザベトとのあいだに4人の子供がいた。長女ゾフィーは夭折。二女ギーゼラはバイエルン公レオポルトと結婚。長男ルドルフはベルギー王女シュテファニーと結婚後一女をなしていた。末娘のマリー・ヴァレリーはトスカーナ大公家のフランツ・サルヴァトーレと結婚。トスカーナ大公家はイタリア統一戦争に於いてトスカーナの領地を失っており、事実上ハプスブルク本家の居候状態で帝国領土の継承権を持たなかった。

マリア・テレジアの国家継承の為国事詔書は改められ、ハプスブルク家は女系相続を認めたはずだったが、皇帝は娘や孫娘を継承者に立てなかったし、娘婿のフランツ・サルヴァトーレの継承権を復活させる等の荒技も用いなかった。フランツ・シュテファンとマリア・テレジアの長男ヨーゼフ二世から始まるハプスブルク・ロートリンゲン家の皇位継承は6世代6人の皇帝が、3度の傍系継承を繰り返し、第一次世界大戦に敗れ帝国が解体されるまで男系男子で続いていったのだ。

「滅びるまで男系男子」潔くて、私としては好感が持てる一例だ。
posted by 鈴之介改め弥生 at 23:45| ☁| Comment(2) | TrackBack(5) | 外国史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月28日

安定した皇位継承の為に 〜ハプスブルクに学べ・前編〜

外国の例と言うと、例の会議では極めて僅かな、しかも女系継承を正当化する例のみを取り上げていたので、このブログでは欧州の王位継承の歴史を取り上げてみようと思う。世界史の授業を思い出しながらご覧いただきたい。

ヨーロッパの王室で日本と一番近い継承法を採用していたのは、ハプスブルク帝国だと思う。ハプスブルク家は初めて神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれた、ルドルフ一世(1218−1291)の頃より、男系男子の継承を続けてきたが、カール六世(1685−1740)は1716年に後継の男児に先立たれてしまった。領土の分割禁止と男子継承を定めた国事詔書を公布した3年後のことだった。カール六世に他に男子はなく、国事詔書を改め娘のマリア・テレジアに継がせるより他になくなってしまった。

皇帝は娘の婿にロートリンゲン公国の後継者であるフランツ・シュテファンを選んだ。ロートリンゲン公国は現在のフランス、ロレーヌ地方にあたり大国とは言えず、ハプスブルクの婿としては釣り合いの取れない縁組であったが、マリア・テレジアが彼をひどく気に入っていたし、皇帝も目をかけていたので華燭の典を挙げるはこびと相成った。

二人の結婚にはフランスの反発もあり、結婚を承認する条件としてロートリンゲン公国をフランスに割譲し、その代償として後嗣の絶えたトスカーナ大公国(現イタリア領)の領主となることが認められた。フランツは祖国ロートリンゲンの領土を放棄する合意書に泣く泣く署名した。しかし、祖国を放棄して入城したウィーンの宮廷は彼を暖かく迎えはしなかった。

マリアとフランツは1736年に結婚してまもなく王女に恵まれた。男子を期待していた皇帝は落胆したが、気を取り直して娘に喜びの気持ちを伝えた。しかし、次の子供も王女だったので失望し、三人目がまたしても王女だったので、今度は見向きもしなかった。女児ばかりの誕生にウィーンの民衆は「王子の誕生を見ないのはフランツ公に欠陥があるからだ」とフランツを批難した。

1740年にカール六世が急逝すると、マリア・テレジアは23歳の若さでハプスブルク家の女王に即位した。王女の国家継承を承認したはずの諸国は揃って異議を唱え、マリア・テレジアに帝国領土でもっとも政情不安定なハンガリーを引き継がせ、他の領土を没収しようとした。その年の暮れプロイセンがシュレージエン(現ポーランド領)に攻め込み力づくで強奪し、「オーストリア継承戦争」の火蓋が切って落とされた。翌年バイエルンがオーストリアの継承権を主張し、神聖ローマ皇帝の位につく。フランスもこれに同調しつつベルギーの割譲を要求。フランスと海外植民地で競い合うイギリスがハプスブルクの側に立った。オーストリア継承戦争は7年間続き、勝利はしてもシュレージエンを失った。

後にマリアとフランツの次男レオポルト(トスカーナ大公)に男子誕生の報を受けたマリア・テレジアは、部屋着にコートを羽織った軽装で王宮と棟続きのブルク劇場に駆けつけ「うちのポルドルに男の子が生まれたのよ!」と観客に向かって声高く叫んだ。劇場では悲劇の上演中だったが、客席のウィーンの人々は芝居の事などすっかり忘れ、後継者の誕生を祝福した。7年にも及んだ継承戦争が国家に残した爪痕の大きさと、正統な継承者を得ることが国家の安全保障にどれほど重要な事かが窺い知れるエピソードだろう。

現代の私達がこの事例から学ぶべきは「野心的な隣国があるなら、なるべく正統な男王を立てるべきだ」の一言に尽きるのではないだろうか。
posted by 鈴之介改め弥生 at 00:23| ☔| Comment(17) | TrackBack(10) | 外国史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月26日

安定した皇位継承の為に 〜伝統を未来へつなぐ〜

とりあえずここらで本ブログの方針を記したいと思います。

私は昭和22年に皇籍離脱された旧宮家の男系男子の方たちを再び皇籍にお戻しし、その御血筋が皇位を継がれるのが一番良いと考えます。
まず、皇太子殿下が第百二十六代の天皇になり、秋篠宮殿下が立太子されるのが一番自然でしょう。「短期間に崩御と即位を繰り返すのは好ましくない」との声もありますが、秋篠宮殿下が皇太子のまま御薨去あそばされることもあるでしょうし、皇位に就かれてから長生きされて第百二十七代の御世が20年、30年と続く可能性もあります。昭和天皇は秩父宮、高松宮両殿下を御見送りなさいましたし、三笠宮殿下は昭和天皇より長生きなさっております。人の寿命などわからないものです。

とりあえず皇位継承者の枠組みを拡げることから始めたらどうでしょうか?
第一群として現在の皇族、第二群として旧皇族とその子孫、第三群として明治から一斉離脱までに皇籍を離れられた各宮家の次男以下の方の御子孫。どうですか?皇位継承者が倍増しましたよね。王族ではないが継承権保持者という欧州のシステムを取り入れましょう。

現在第一群には秋篠宮殿下よりお若い皇位継承者がいらっしゃらないので、第二群から3代後の天皇を選ぶのです。選考方法ですが、まずメディカルチェックをして子孫を残せる身体かどうか確認します。面接で皇籍復帰の意思を確かめる必要もあります。おかしな係累がいないかどうか、親族調査も実施したほうが良いでしょう。継承順は親等順に選ぶ方法と、天皇陛下及び皇族方の指名選択法も考えられます。天皇陛下が「○○家の◇◇を」と仰せになればそれは勅許です。勅許が下りたら臣下として速やかに実行に移しましょう。

ここまでやるだけでも一仕事です。随分と面倒臭いですが、伝統とは面倒臭いものなのです。一番親い先祖まで辿ってみても20代の隔たりがあるほどの皇位継承の危機など未曾有のことです。未曾有のことなのですから、面倒がらずに真摯に事にあたる必要があるのです。私たちは日本国始まって以来の繁栄を享受しているのですから、面倒なことも真摯な態度で進んで引き受けましょう。

女系継承を認め雑種天皇を容認することも、殆ど他人と言えるほど(男系)血縁の遠い天皇を立てることも前例のないことです。同じ前例にないことをするのなら、男系男子の伝統を守り通しながら新しい例を作るほうが合理的だと私は考えます。
また、後の世でいつか再び起こり得る皇統断絶の危機に際して私達の子孫に良い手本を示すことができるのではないでしょうか?
「平成の世のご先祖様たちは、このように考え、このように実行した。自分達もそれに倣おう」と。
posted by 鈴之介改め弥生 at 23:50| ☔| Comment(16) | TrackBack(15) | 皇位継承 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月24日

安定した皇位継承の為に 〜有識者会議案の嘘を暴け〜

暴走特急有識者会議号が最終報告書を持って官邸に乗り込みました。いよいよ最終戦争突入です。

私は一連の会議で作成されました最終報告を認めない立場を取ります。
何故かと申しますと、この会議を有効と認め提出案を法案として成立させますと、三内親王及び五女王、合わせて8人の子孫にのみ皇位継承権をお授けすることになるのです。
母数が8人…これは少なすぎると思います。

また三笠宮系の五人の女王殿下方が降嫁或は皇籍離脱を選択されますと、皇位継承は三人の内親王殿下方の子孫にのみ頼ることになるのです。
また、秋篠宮家の眞子内親王、佳子内親王が結婚し、宮家を継承・創設されましてもお二方がお産みになるお子様は今上陛下の三世孫なので、王・女王となり皇籍離脱を選ばれる可能性があります。

愛子内親王がお子様をお産みにならない場合は離脱は不可能ですが(皇室会議に諮る必要がある為)、愛子内親王にお子様がいらっしゃれば離脱は容易に認められるでしょう。
直系継承主義になりますと傍系の存在意義は今までよりも軽くなりますから、「いてもいなくても同じ」扱いになる可能性もあります。

しかし、五女王殿下が降嫁、眞子内親王、佳子内親王のお子様が皇籍離脱を選択された後、愛子内親王のお子様にもしもの事があったら?
…皇統断絶です。

「そういった場合は離脱された方かその子孫が皇位を継承されれば良いのでは?」とお思いになる方もいらっしゃるかもしれませんが、それは不可能です。旧宮家の皇籍復帰による男系男子継承論に対して、有識者会議御一行様は「たとえ以前は皇族でも一旦皇籍を離脱すれば只の人。我々と同じ一般人。皇位の継承など論外」との考えに沿って最終報告書を提出しているからです。
……皇統断絶です。

吉川座長は提出後の記者会見で、「中長期に通用する制度を作ったつもりだ。ただちに実行して欲しい」と述べたそうですが、有識者案は決して中長期に通用する制度足り得ないのです。極めて短期間のうちに行き詰まる危険性さえ孕んでいるのです。

皇位継承を安定させる為には継承候補者の母数を増やすことが必要なのです。
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posted by 鈴之介改め弥生 at 23:50| ☔| Comment(109) | TrackBack(11) | 皇位継承 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月22日

大衆迎合主義は天皇制廃止論に向かう

(自称)有識者会議のお粗末さは記事にするまでもないのですが、吉川座長はちょっと放言がすぎるのではないでしょうか?(もうヤケなのか)
「私たちは歴史観や国家観で案を作ったのではない。歴史観は国会で議論すべき問題だ」
と厚顔無恥に仰られますと国家観も歴史観も抜きにいったい何の為に会合が行われたのか…と唖然としてしまいます。(ついでに有識者会議に投入された税金が無駄金だと感じます)

今回一番気になったのがこの部分です。
「長子優先とした方が、国民が将来の天皇の成長をご幼少のころから見守ることができ、分かりやすい」
「長子(年長者)優先の方が国民の親しみを得られる」との論法のようですが、今上陛下のお孫さんでは秋篠宮家の眞子内親王が最年長です。国民は幼少の頃より成長を見守ってきました。「一番親しみを感じる方が将来の天皇に」と言うなら分かりやすく眞子内親王に決定です。

また将来的に起こり得る事例として、長子は人見知りの引込み思案でカメラを向けると泣き出すので映像はほとんど公開されない。次子は人懐っこく活発でカメラを向けると寄って来るので映像も豊富に公開される。このような場合、国民は次子の成長をより身近なものとして見守り続けることになります。「二の宮様を将来の天皇に」となるかもしれません。

天皇の御位は人気投票ではないのです。飽くまでも厳格な制度を適用すべきです。
情に棹差せば流されます。情による典範改正の流れ行く先が「天皇制廃止論」である可能性は0ではありません。
あらゆる可能性を考慮し、歴史、制度、神道儀礼、宮中典礼などを多角的に見つめ典範改正に生かしてゆく必要を強く感じます。

以下参考記事
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posted by 鈴之介改め弥生 at 23:30| ☔| Comment(26) | TrackBack(9) | 皇位継承 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月20日

有識者会議メンバーはファシズム集団

「皇室典範に関する有識者会議」が密室会合をもってして典範改悪への道に更に一歩踏み込みました。

内親王の宮家創設容認、皇室典範会議が最終調整
 小泉首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」(座長=吉川弘之・元東大学長)は19日、皇族の範囲について、女性皇族のうち、天皇の姉妹や娘、孫にあたる「内親王」に限り、皇籍離脱を認めず、結婚後は宮家を創設できるようにする方向で最終調整に入った。

 内親王や親王妃らを除く女性皇族である「女王」についても、結婚後、皇籍を離脱しないことを認める見通しだ。

 有識者会議は、男系男子に限定していた皇位継承資格者を女性皇族に拡大し、女性・女系天皇を容認する考えで一致。皇位継承順位は男女を問わず、長子優先とする方針を固めている。21日の第16回会合で、内親王の宮家創設容認も確認する見通しだ。今月中に最終報告をまとめ、小泉首相に提出する。

 現行の皇室典範は、皇族の子孫はすべて皇族とする「永世皇族制」を採用している。15歳以上の内親王と王、女王は自らの意思で皇籍離脱が可能と規定。さらに、内親王、女王を問わず、女性皇族は一般男性と結婚した場合、皇室を離れなければならないと定めている。

 今回、有識者会議が女性天皇を容認したことで、女性皇族は皇位継承のために、結婚後も皇室に残る必要が出てきた。しかし、すべての女性皇族が皇室に残り、宮家を創設した場合、皇族費増加の懸念があった。

 このため、有識者会議は女性皇族のうち、内親王は必ず皇族に残る一方、女王は自らの意思がある場合には皇籍離脱できる制度とすべきだとの考えで大筋一致した。これにより、皇籍離脱の要件に関して、内親王は、天皇の弟や息子、男孫である親王と同じ立場となる見込みだ。また、女王も王(親王以外の男性皇族)に準じることになる。
(2005年11月20日9時19分 読売新聞)


寛仁親王家の彬子女王(23歳)、瑶子女王(22歳)、
高円宮家の承子女王(19歳)、典子女王(17歳)、絢子女王(15歳)、
秋篠宮家の眞子内親王(14歳)、佳子内親王(10歳)、
はいずれも継承権保持者として育てられたわけではありません。
ご両親も本人方も「いずれはお嫁にゆくもの」と思いお育ちになりました。
皇族女性としての制約の多さも「結婚迄の辛抱」と思って耐えておられる方もいらっしゃるのではないでしょうか?
思春期の只中におられる内親王殿下、女王殿下方の成育に悪影響を与える懸念があり、このような改悪はとても容認できるものではありません。
人生を捻じ曲げられた姫君たちが「生涯独身」を宣言して皇室の歴史に終止符を打つ決断をされたとしたら、「安定的な皇位継承」どころの話じゃなくなります。

その時、いったい“誰”が責任を取るのでしょうか?
posted by 鈴之介改め弥生 at 23:55| ☔| Comment(1) | TrackBack(9) | 皇位継承 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月19日

紀宮清子内親王殿下御結婚おめでとうございます!

去る15日(火)天皇家の長女清子内親王が東京都職員 黒田慶樹さんと華燭の典を挙げられました。
御両人の人柄を表す、落ち着いた良い結婚式だったと思います。
紀宮様お気に入りのクラリス姫のコスプレドレスなどはローブ・デコルテ、ローブ・モンタントを着慣れた方ならではの遊び心と言えますね。

私も用事のついでにお祝いの記帳に馳せ参じました。
12時を少し過ぎていましたが、希望者の列も途切れることなく国民全体の祝意を表すものだったと思います。
平日のことですから老齢の方が多かったですが、丸の内のビジネスマンやジョギング中の人、お祖母さま、お母様に連れられたお被布姿の女の子(ちょうど七五三祝いの日ですね)、外国人も見かけました。(何故かパンクな兄ちゃんもいた)

記帳を終えて、坂下門から退出した時にちょうど天皇皇后両陛下の御車が皇居正門に御帰還。
これから記帳に向かう者も退出し帰路につく者も、皆一様に立ち止まって200m以上離れた御車が正門にお入りになるのを見守っておりました。

日本人を吸い寄せる不思議な引力、皇室のことをこれからブログで取り上げていこうと思います。
posted by 鈴之介改め弥生 at 15:30| Comment(2) | TrackBack(1) | 皇室関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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