2005年11月28日

安定した皇位継承の為に 〜ハプスブルクに学べ・前編〜

外国の例と言うと、例の会議では極めて僅かな、しかも女系継承を正当化する例のみを取り上げていたので、このブログでは欧州の王位継承の歴史を取り上げてみようと思う。世界史の授業を思い出しながらご覧いただきたい。

ヨーロッパの王室で日本と一番近い継承法を採用していたのは、ハプスブルク帝国だと思う。ハプスブルク家は初めて神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれた、ルドルフ一世(1218−1291)の頃より、男系男子の継承を続けてきたが、カール六世(1685−1740)は1716年に後継の男児に先立たれてしまった。領土の分割禁止と男子継承を定めた国事詔書を公布した3年後のことだった。カール六世に他に男子はなく、国事詔書を改め娘のマリア・テレジアに継がせるより他になくなってしまった。

皇帝は娘の婿にロートリンゲン公国の後継者であるフランツ・シュテファンを選んだ。ロートリンゲン公国は現在のフランス、ロレーヌ地方にあたり大国とは言えず、ハプスブルクの婿としては釣り合いの取れない縁組であったが、マリア・テレジアが彼をひどく気に入っていたし、皇帝も目をかけていたので華燭の典を挙げるはこびと相成った。

二人の結婚にはフランスの反発もあり、結婚を承認する条件としてロートリンゲン公国をフランスに割譲し、その代償として後嗣の絶えたトスカーナ大公国(現イタリア領)の領主となることが認められた。フランツは祖国ロートリンゲンの領土を放棄する合意書に泣く泣く署名した。しかし、祖国を放棄して入城したウィーンの宮廷は彼を暖かく迎えはしなかった。

マリアとフランツは1736年に結婚してまもなく王女に恵まれた。男子を期待していた皇帝は落胆したが、気を取り直して娘に喜びの気持ちを伝えた。しかし、次の子供も王女だったので失望し、三人目がまたしても王女だったので、今度は見向きもしなかった。女児ばかりの誕生にウィーンの民衆は「王子の誕生を見ないのはフランツ公に欠陥があるからだ」とフランツを批難した。

1740年にカール六世が急逝すると、マリア・テレジアは23歳の若さでハプスブルク家の女王に即位した。王女の国家継承を承認したはずの諸国は揃って異議を唱え、マリア・テレジアに帝国領土でもっとも政情不安定なハンガリーを引き継がせ、他の領土を没収しようとした。その年の暮れプロイセンがシュレージエン(現ポーランド領)に攻め込み力づくで強奪し、「オーストリア継承戦争」の火蓋が切って落とされた。翌年バイエルンがオーストリアの継承権を主張し、神聖ローマ皇帝の位につく。フランスもこれに同調しつつベルギーの割譲を要求。フランスと海外植民地で競い合うイギリスがハプスブルクの側に立った。オーストリア継承戦争は7年間続き、勝利はしてもシュレージエンを失った。

後にマリアとフランツの次男レオポルト(トスカーナ大公)に男子誕生の報を受けたマリア・テレジアは、部屋着にコートを羽織った軽装で王宮と棟続きのブルク劇場に駆けつけ「うちのポルドルに男の子が生まれたのよ!」と観客に向かって声高く叫んだ。劇場では悲劇の上演中だったが、客席のウィーンの人々は芝居の事などすっかり忘れ、後継者の誕生を祝福した。7年にも及んだ継承戦争が国家に残した爪痕の大きさと、正統な継承者を得ることが国家の安全保障にどれほど重要な事かが窺い知れるエピソードだろう。

現代の私達がこの事例から学ぶべきは「野心的な隣国があるなら、なるべく正統な男王を立てるべきだ」の一言に尽きるのではないだろうか。
posted by 鈴之介改め弥生 at 00:23| ☔| Comment(17) | TrackBack(10) | 外国史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。