2005年12月22日

継承問題を稲作に置き換えて考えると…

月刊WiLL1月号で上智大学名誉教授の渡部昇一氏が『あまりに拙速な女性天皇容認論』を寄稿され、そのなかで「種と畑」の例を披露されていたので、私は日本人にとって一番身近な食材“米”に見立てて「種と畑」の理論を考えてみたい。

天皇家に代々伝わる品種があるとする。仮に「キクヒカリ」と呼ぼう。「キクヒカリ」は苗床(母胎)で発芽し、然るべき時に水田に田植えされる。竹の園生の最も貴き水田が皇位であり、それに次ぐものとして宮家という水田がある。

基本的には一の水田の稲穂を収穫し、種籾を蒔き次代へつなぐ訳だが、時として不作で実入りが悪かったり、いもち病に罹る時がある。そのような時には二の水田(宮家)で収穫された種籾を苗床で育て、一の水田に植えるのが伝統的な「キクヒカリ」の栽培方法だと言えよう。

苗床は母系遺伝である。どこの家にも家紋があるが、女紋と言われるものには
A.その家に代々伝わる女性用の紋
B.嫁入りした女性の実家の紋
C.母から娘に代々受け継がれた出所不明の紋があり、苗床の理論はCとBに分類される。出所が不明な故に嫁ぐ時には生家の紋に塗り替えて送り出すのが日本の伝統と言えるのだ。天皇家に生まれた女性達は十六葉菊花紋印の苗床を持ってお嫁入りされる。性能は他の苗床と変わらないが、そこに種籾を蒔くことが一種のステイタスである。

先頃、黒田慶樹氏の元に降嫁された紀宮清子様が男子をお産みになると、その子は「カシワホマレ」、島津久永氏に降嫁された清宮貴子様の男児は「ジュウモンジコマチ」、東久邇宮稔彦王殿下に嫁された照宮成子様の男児は「キクヒカリ」である。

皇統外の天皇を認めるということは、「ウメバチ1号」「モッコウ2号」「タカノハ3号」「サイワイビシ4号」「ササリンドウ5号」「トモエ6号」「サガリフジ7号」「クマイザサ8号」「ゴショグルマ9号」「タチバナ10号」etc.を一の水田で栽培することになるのだ。「キクヒカリ」の為の水田から「キクヒカリ」が駆逐される。これを「時代の流れ」のひと言で受け入れてしまって良いのでしょうか?

直系継承に移行するのなら、伝統的な「キクヒカリ」専用の水田は休耕田にし、千年後の遺跡にしたほうが良いと私は考えます。即ち皇室制度を廃止して、王室制度へ移行するわけです。

日本人が古典を読み続ける限り、源氏物語の読者が
「頭の中将は Princess の子なのに何故 Prince じゃないの?源氏みたいに臣籍降下したの?」
と疑問を持つだろうし、変質した皇室制度を問題視する人間も一定数存在し続けるでしょう。

女子の継承を認めて、その婿に天皇家の血を受け継ぐ男系男子を迎えれば良い、と考える向きもあるようですが、皇室入りする男性がキクヒカリ種と認定される必要が出てくるし、実質的に男系の血が入れば良いと言うわけではなく、物事には他者を納得させるだけの形式も重要でしょう。国家の威信を保つ為には日本国民が認めるだけでは不十分です。

一般で「キクヒカリ」の増産をするのは難しいですし、血統の追跡調査も困難です。また、あらゆる特権も認められず、栽培奨励金も出ないようでは「キクヒカリ」の種の保存は絶望的と言えます。
posted by 鈴之介改め弥生 at 23:55| ☀| Comment(35) | TrackBack(30) | 皇位継承 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月14日

皇統断絶問題TBセンター始動!

皇統断絶問題TBセンターが開設されました。TBセンターを利用してのブロガー達の結束が期待されます。

寒い日が続きますね。ちょっと風邪気味で困っております。文章を考えにくいので、借りてきた皇室関連本を読んで勉強したり、引用箇所をメモ帳に打ち込んだりしています。
今後のエントリーでは女帝のシュミレーションをしたり、女帝の履歴書を作成したりするつもりです。

10(土)11(日)にBS9Chで「美の美術館〜アジア仏の美100選〜」を前後編で放送していました。CMなしのノーカットで計6時間の長編でした。日本の仏像もたくさん紹介されていたし、タイでは王太子が仏像の御身拭いをしている事が紹介されていました。政教分離教の狂信者が騒ぎ立てる日本では地鎮祭でも裁判沙汰になるのに比べて、正常な信仰心を妨げられない国家の穏やかさを羨ましく感じました。

私は日本は防衛や信仰の面でもっと「普通の国」になる必要があると思います。「普通の国」でなければ、国民の安全も、皇室の安泰も守られないと考えるからです。
posted by 鈴之介改め弥生 at 23:50| ☀| Comment(14) | TrackBack(1) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月09日

安定した皇位継承の為に 〜ハプスブルクに学べ・後編〜

さて、ハプスブルク家の継承問題を語る上で欠かせないキーワードは「神聖ローマ帝国」だろう。時代は10世紀後半、時のローマ教皇ヨハネス12世は教皇領土の拡大を目論み、周辺諸国に攻め込んだ。しかし、負けた上に攻め込まれ窮地に陥り、東フランク王国の国王オットー一世に援軍を要請した。オットー一世は援軍の代償として自分を古代ローマ帝国の後継者とし、ローマ皇帝として戴冠させるよう教皇に迫り、962年にローマでの戴冠式を実現させる。

ローマ帝国はフランク王国の後継帝国を意味していたが、13世紀には帝国としての実体を成さない名のみの帝国となり、七人の選帝侯による選挙での選出方法に切り替わると「神聖ローマ皇帝」の称号はすっかり名誉職に成り下がっていた。

1438年に108年ぶりにハプスブルク家から神聖ローマ皇帝に選出されたアルブレヒト二世が「何故選ばれたのか?」と問えば、「弱小領主だから選出されたのさ♪」と返ってくるような有様であった。弱小領主のハプスブルク家が20世紀までその命脈を保つことができたのは、結婚政策の賜物である。アルブレヒト二世の死後、帝位は又従兄弟のフリードリヒ三世が継承し、この皇帝が推し進めた結婚政策が功を奏したと言えよう。

フリードリヒ三世の息子のマクシミリアンはブルグント公国(現在のベネルクス地方)の跡取娘マリアと1477年に結婚した。二人の縁組はフリードリヒ三世と、マリアの父ブルグント公シャルルのあいだで話が進められていたが、次の神聖ローマ皇帝を示す「ローマ王」の称号を欲しがるブルグント公と、その野心だけは認められないフリードリヒ三世との折衝の最中、ブルグント公がスイス方面に出兵し陣中で落命する。ブルグントと言う絶好のネギを背負ったか弱い鴨マリアは、フランスに攻められ、公国の貴族達は特権を拡大することしか考えず、孤立無援の状態だった。故ブルグント公は「愛娘マリアの夫はマクシミリアンにすべし」との遺言を残していた為、マリアはそれに従いマクシミリアンを夫に迎えた。

マクシミリアンとマリアはブルグントを統治しながら結婚生活を始め、王子フィリップと王女マルガレーテに恵まれ幸福な結婚生活を営んだが、1482年3月にマリアは思わぬ事故に遭遇し、フィリップとマルガレーテを遺産相続者に定め、夫のマクシミリアンにその後見を託して逝去、ブルグント公家は断絶した。ブルグント公の領土はこれ以後ハプスブルク家が統治することになる。

マリアの死後、マクシミリアンの扱いがどうなったかと言うと、結果を見れば慇懃にブルグントを追い出されたかたちになる。マリアの存在あってこその共同統治者(夫)という考えが基にあり、マリアが没すれば彼はただの外国人と見なされた。皇帝位を継いでマクシミリアン一世となった彼は国家財政の基盤固めに奔走する。弱小領主の悲哀ここに極まれり。(再婚相手には不自由しなかったようだが)

マクシミリアン一世は二人の子供を共にスペイン(カスティーリャ=アラゴン連合王国)と縁組させた。フィリップは1496年にファナ王女を娶り、マルガレーテは1497年にファン王太子のもとに輿入れした。生来病弱なファン王太子は同年に逝去、懐妊していたマルガレーテはファン王太子の遺児を産むが死産だった。一方のフィリップとファナには6人の子供が生まれ、彼らが後のハプスブルクとスペインを継承することになる。

フィリップとファナからはカール、フェルディナントの2人の王子とエレオノーレ、イザベラ、マリア、カタリーナの4人の王女が生まれた。マクシミリアンは孫達の結婚相手をハンガリーに求め、ヴワディスワフ王のラヨシュ王太子、アンナ王女の姉弟と、カールかフェルディナントのどちらかとマリア兄妹を結婚させることで1515年に合意し、1521年にフェルディナントとアンナが、1522年にラヨシュとマリアが結婚し、二重結婚が完了した。

1526年にボヘミア・ハンガリー王ラヨシュ二世は対トルコ戦で戦士。後嗣が無かった為、継承権はアンナに移りフェルディナントにハンガリーとボヘミアの王冠が転がり込んできたのだ。フェルディナントとアンナは15人の子に恵まれ、その血統がこの地を帝国の終焉まで領有することとなる。マクシミリアンとマリアの結婚から僅か50年でハプスブルク家はオーストリアの小領主からブルグント公領(1477)、カスティーリャ王国領(1504)、アラゴン王国領(1516)、ハンガリー王国領(1526)、ボヘミア王国領(1526)、の広大な領土といくつもの王冠を保持するヨーロッパでも指折りの帝国となったのだ。

まさに結婚わらしべ長者と言えよう。
「戦いは他のものにさせるがよい。汝幸あるオーストリアよ、結婚せよ。
――マルス(軍神)が他のものに与えし国は、ヴィーナス(愛の女神)によりて授けられん。」

当時の有名なラテン語詩がハプスブルクの幸運を見事に表現している。

カールは神聖ローマ帝国皇帝カール五世となり、スペインとそれに付随する海外領土を息子のフェリペに相続させ、オーストリア方面の領土と神聖ローマ皇帝の称号を弟のフェルディナントに譲り渡し、巨大帝国を分割した。スペイン・ハプスブルク家はカール五世の玄孫カルロス二世(1700年没)の代で断絶し、スペイン継承戦争を経て、以後ブルボン家の統治に移る。オーストリア・ハプスブルク家レオポルト一世の末期にあたり、その40年後にはオーストリア・ハプスブルクの男系も断絶する。

二つの王家の男系が40年(僅か一世代差)で両方とも断絶したのは興味深い一致と言える。光格系の男系絶えし後、数十年で伏見宮系の男系が絶える恐れも十分にある。早目の血統保護政策が必要だろう、なんと言っても晩婚・少子高齢化の御時世なのだから。
posted by 鈴之介改め弥生 at 23:40| ☁| Comment(3) | TrackBack(3) | 外国史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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