ルドルフの死により、俄かに継承者として脚光を浴びたフランツ・フェルディナントは、後の君主としての教養に乏しい面があり、それを補う為に世界各国を旅行した。1893年(明治二十六年)8月には日本にも立ち寄り、賓客として歓迎を受けている。継承者としての研鑚を積むフランツ・フェルディナントの結婚は帝国の行方を左右するものであり、ヴィッテルスバッハ家の王女やフリードリヒ大公の娘達など、花嫁候補が幾人も取り沙汰された。
しかし、フランツ・フェルディナントは意外な女性を妻に選ぶ。ボヘミアのホテク伯爵家の娘ゾフィーだった。ホテク伯爵家は旧家ではあったが身分はさほど高くなく、帝位継承者の妃として認められるような家柄ではなかった。皇帝はこの不釣合いな縁組に激怒したが、弟達もフランツ・フェルディナントの弟オットー、フェルディナント・カールも無能で、役に立ちそうなのがこの甥一人とあっては如何ともし難く、いくつかの条件を付けて結婚を認めざるを得なかった。
条件とは、ゾフィー・ホテクは大公妃の称号を得ることがない(王族として扱わない)。二人の婚姻により誕生した子供には帝国領土の継承権を認めない。等のハプスブルク家における「貴賎結婚」のルールを当て嵌めることだった。二人はそれらの条件を承知して結婚したが、ホーエンベルク女侯爵と呼ばれるようになったゾフィーを蔑視する風潮は最後まで続くことになる。
帝国内では正式な妃としての扱いを受けることのないゾフィーも、他国を訪れるさいは継承者の正式な妃として扱われることも多く、二人は好んで外国訪問を重ねることになる。オーストリア・ハンガリー二重帝国の名が示すよう帝国内で厚遇を受けるハンガリーを目の敵にし、妻の出身母体であるスラブに肩入れするフランツ・フェルディナントの言動は、皇帝と甥の軋轢を増す方向に作用した。
1908年に二重帝国に併合されたボスニア・ヘルツェゴビナの首都、サライェヴォへの訪問は両者の反目とバルカンの緊張が高まるなか1914年6月に行われ、大公夫妻は慎重を期して別行動を取りながらサライェヴォへ向かった。しかしサライェヴォでの歓迎行事の予定などは公表されていた為、セルビアの民族主義集団「黒い手」は要所に狙撃手を配置し、夫妻はガブリロ・プリンチプの凶弾に斃れる事となる。世に言う「サライェヴォ事件」である。サライェヴォの銃声を受けてオーストリア・ハンガリー二重帝国はセルビアに宣戦を布告。第一次世界大戦の幕開けとなった。
さて、フランツ・ヨーゼフ一世には皇后エリーザベトとのあいだに4人の子供がいた。長女ゾフィーは夭折。二女ギーゼラはバイエルン公レオポルトと結婚。長男ルドルフはベルギー王女シュテファニーと結婚後一女をなしていた。末娘のマリー・ヴァレリーはトスカーナ大公家のフランツ・サルヴァトーレと結婚。トスカーナ大公家はイタリア統一戦争に於いてトスカーナの領地を失っており、事実上ハプスブルク本家の居候状態で帝国領土の継承権を持たなかった。
マリア・テレジアの国家継承の為国事詔書は改められ、ハプスブルク家は女系相続を認めたはずだったが、皇帝は娘や孫娘を継承者に立てなかったし、娘婿のフランツ・サルヴァトーレの継承権を復活させる等の荒技も用いなかった。フランツ・シュテファンとマリア・テレジアの長男ヨーゼフ二世から始まるハプスブルク・ロートリンゲン家の皇位継承は6世代6人の皇帝が、3度の傍系継承を繰り返し、第一次世界大戦に敗れ帝国が解体されるまで男系男子で続いていったのだ。
「滅びるまで男系男子」潔くて、私としては好感が持てる一例だ。
単純に他国と比較することは出来ないでしょうが、過去の歴史としてみると、安易に継承のルールを変えることが、いかに世の中の害になるかがよく解ります。
続きを楽しみにしています。
現在、欧州で主流の第一子継承が、数十年後に男子優先に改められる可能性もありますし、日本が180度方針を変えた継承法を導入するリスクも考えなければいけませんね。