ローマ帝国はフランク王国の後継帝国を意味していたが、13世紀には帝国としての実体を成さない名のみの帝国となり、七人の選帝侯による選挙での選出方法に切り替わると「神聖ローマ皇帝」の称号はすっかり名誉職に成り下がっていた。
1438年に108年ぶりにハプスブルク家から神聖ローマ皇帝に選出されたアルブレヒト二世が「何故選ばれたのか?」と問えば、「弱小領主だから選出されたのさ♪」と返ってくるような有様であった。弱小領主のハプスブルク家が20世紀までその命脈を保つことができたのは、結婚政策の賜物である。アルブレヒト二世の死後、帝位は又従兄弟のフリードリヒ三世が継承し、この皇帝が推し進めた結婚政策が功を奏したと言えよう。
フリードリヒ三世の息子のマクシミリアンはブルグント公国(現在のベネルクス地方)の跡取娘マリアと1477年に結婚した。二人の縁組はフリードリヒ三世と、マリアの父ブルグント公シャルルのあいだで話が進められていたが、次の神聖ローマ皇帝を示す「ローマ王」の称号を欲しがるブルグント公と、その野心だけは認められないフリードリヒ三世との折衝の最中、ブルグント公がスイス方面に出兵し陣中で落命する。ブルグントと言う絶好のネギを背負ったか弱い鴨マリアは、フランスに攻められ、公国の貴族達は特権を拡大することしか考えず、孤立無援の状態だった。故ブルグント公は「愛娘マリアの夫はマクシミリアンにすべし」との遺言を残していた為、マリアはそれに従いマクシミリアンを夫に迎えた。
マクシミリアンとマリアはブルグントを統治しながら結婚生活を始め、王子フィリップと王女マルガレーテに恵まれ幸福な結婚生活を営んだが、1482年3月にマリアは思わぬ事故に遭遇し、フィリップとマルガレーテを遺産相続者に定め、夫のマクシミリアンにその後見を託して逝去、ブルグント公家は断絶した。ブルグント公の領土はこれ以後ハプスブルク家が統治することになる。
マリアの死後、マクシミリアンの扱いがどうなったかと言うと、結果を見れば慇懃にブルグントを追い出されたかたちになる。マリアの存在あってこその共同統治者(夫)という考えが基にあり、マリアが没すれば彼はただの外国人と見なされた。皇帝位を継いでマクシミリアン一世となった彼は国家財政の基盤固めに奔走する。弱小領主の悲哀ここに極まれり。(再婚相手には不自由しなかったようだが)
マクシミリアン一世は二人の子供を共にスペイン(カスティーリャ=アラゴン連合王国)と縁組させた。フィリップは1496年にファナ王女を娶り、マルガレーテは1497年にファン王太子のもとに輿入れした。生来病弱なファン王太子は同年に逝去、懐妊していたマルガレーテはファン王太子の遺児を産むが死産だった。一方のフィリップとファナには6人の子供が生まれ、彼らが後のハプスブルクとスペインを継承することになる。
フィリップとファナからはカール、フェルディナントの2人の王子とエレオノーレ、イザベラ、マリア、カタリーナの4人の王女が生まれた。マクシミリアンは孫達の結婚相手をハンガリーに求め、ヴワディスワフ王のラヨシュ王太子、アンナ王女の姉弟と、カールかフェルディナントのどちらかとマリア兄妹を結婚させることで1515年に合意し、1521年にフェルディナントとアンナが、1522年にラヨシュとマリアが結婚し、二重結婚が完了した。
1526年にボヘミア・ハンガリー王ラヨシュ二世は対トルコ戦で戦士。後嗣が無かった為、継承権はアンナに移りフェルディナントにハンガリーとボヘミアの王冠が転がり込んできたのだ。フェルディナントとアンナは15人の子に恵まれ、その血統がこの地を帝国の終焉まで領有することとなる。マクシミリアンとマリアの結婚から僅か50年でハプスブルク家はオーストリアの小領主からブルグント公領(1477)、カスティーリャ王国領(1504)、アラゴン王国領(1516)、ハンガリー王国領(1526)、ボヘミア王国領(1526)、の広大な領土といくつもの王冠を保持するヨーロッパでも指折りの帝国となったのだ。
まさに結婚わらしべ長者と言えよう。
「戦いは他のものにさせるがよい。汝幸あるオーストリアよ、結婚せよ。
――マルス(軍神)が他のものに与えし国は、ヴィーナス(愛の女神)によりて授けられん。」
当時の有名なラテン語詩がハプスブルクの幸運を見事に表現している。
カールは神聖ローマ帝国皇帝カール五世となり、スペインとそれに付随する海外領土を息子のフェリペに相続させ、オーストリア方面の領土と神聖ローマ皇帝の称号を弟のフェルディナントに譲り渡し、巨大帝国を分割した。スペイン・ハプスブルク家はカール五世の玄孫カルロス二世(1700年没)の代で断絶し、スペイン継承戦争を経て、以後ブルボン家の統治に移る。オーストリア・ハプスブルク家レオポルト一世の末期にあたり、その40年後にはオーストリア・ハプスブルクの男系も断絶する。
二つの王家の男系が40年(僅か一世代差)で両方とも断絶したのは興味深い一致と言える。光格系の男系絶えし後、数十年で伏見宮系の男系が絶える恐れも十分にある。早目の血統保護政策が必要だろう、なんと言っても晩婚・少子高齢化の御時世なのだから。