2005年12月09日

安定した皇位継承の為に 〜ハプスブルクに学べ・後編〜

さて、ハプスブルク家の継承問題を語る上で欠かせないキーワードは「神聖ローマ帝国」だろう。時代は10世紀後半、時のローマ教皇ヨハネス12世は教皇領土の拡大を目論み、周辺諸国に攻め込んだ。しかし、負けた上に攻め込まれ窮地に陥り、東フランク王国の国王オットー一世に援軍を要請した。オットー一世は援軍の代償として自分を古代ローマ帝国の後継者とし、ローマ皇帝として戴冠させるよう教皇に迫り、962年にローマでの戴冠式を実現させる。

ローマ帝国はフランク王国の後継帝国を意味していたが、13世紀には帝国としての実体を成さない名のみの帝国となり、七人の選帝侯による選挙での選出方法に切り替わると「神聖ローマ皇帝」の称号はすっかり名誉職に成り下がっていた。

1438年に108年ぶりにハプスブルク家から神聖ローマ皇帝に選出されたアルブレヒト二世が「何故選ばれたのか?」と問えば、「弱小領主だから選出されたのさ♪」と返ってくるような有様であった。弱小領主のハプスブルク家が20世紀までその命脈を保つことができたのは、結婚政策の賜物である。アルブレヒト二世の死後、帝位は又従兄弟のフリードリヒ三世が継承し、この皇帝が推し進めた結婚政策が功を奏したと言えよう。

フリードリヒ三世の息子のマクシミリアンはブルグント公国(現在のベネルクス地方)の跡取娘マリアと1477年に結婚した。二人の縁組はフリードリヒ三世と、マリアの父ブルグント公シャルルのあいだで話が進められていたが、次の神聖ローマ皇帝を示す「ローマ王」の称号を欲しがるブルグント公と、その野心だけは認められないフリードリヒ三世との折衝の最中、ブルグント公がスイス方面に出兵し陣中で落命する。ブルグントと言う絶好のネギを背負ったか弱い鴨マリアは、フランスに攻められ、公国の貴族達は特権を拡大することしか考えず、孤立無援の状態だった。故ブルグント公は「愛娘マリアの夫はマクシミリアンにすべし」との遺言を残していた為、マリアはそれに従いマクシミリアンを夫に迎えた。

マクシミリアンとマリアはブルグントを統治しながら結婚生活を始め、王子フィリップと王女マルガレーテに恵まれ幸福な結婚生活を営んだが、1482年3月にマリアは思わぬ事故に遭遇し、フィリップとマルガレーテを遺産相続者に定め、夫のマクシミリアンにその後見を託して逝去、ブルグント公家は断絶した。ブルグント公の領土はこれ以後ハプスブルク家が統治することになる。

マリアの死後、マクシミリアンの扱いがどうなったかと言うと、結果を見れば慇懃にブルグントを追い出されたかたちになる。マリアの存在あってこその共同統治者(夫)という考えが基にあり、マリアが没すれば彼はただの外国人と見なされた。皇帝位を継いでマクシミリアン一世となった彼は国家財政の基盤固めに奔走する。弱小領主の悲哀ここに極まれり。(再婚相手には不自由しなかったようだが)

マクシミリアン一世は二人の子供を共にスペイン(カスティーリャ=アラゴン連合王国)と縁組させた。フィリップは1496年にファナ王女を娶り、マルガレーテは1497年にファン王太子のもとに輿入れした。生来病弱なファン王太子は同年に逝去、懐妊していたマルガレーテはファン王太子の遺児を産むが死産だった。一方のフィリップとファナには6人の子供が生まれ、彼らが後のハプスブルクとスペインを継承することになる。

フィリップとファナからはカール、フェルディナントの2人の王子とエレオノーレ、イザベラ、マリア、カタリーナの4人の王女が生まれた。マクシミリアンは孫達の結婚相手をハンガリーに求め、ヴワディスワフ王のラヨシュ王太子、アンナ王女の姉弟と、カールかフェルディナントのどちらかとマリア兄妹を結婚させることで1515年に合意し、1521年にフェルディナントとアンナが、1522年にラヨシュとマリアが結婚し、二重結婚が完了した。

1526年にボヘミア・ハンガリー王ラヨシュ二世は対トルコ戦で戦士。後嗣が無かった為、継承権はアンナに移りフェルディナントにハンガリーとボヘミアの王冠が転がり込んできたのだ。フェルディナントとアンナは15人の子に恵まれ、その血統がこの地を帝国の終焉まで領有することとなる。マクシミリアンとマリアの結婚から僅か50年でハプスブルク家はオーストリアの小領主からブルグント公領(1477)、カスティーリャ王国領(1504)、アラゴン王国領(1516)、ハンガリー王国領(1526)、ボヘミア王国領(1526)、の広大な領土といくつもの王冠を保持するヨーロッパでも指折りの帝国となったのだ。

まさに結婚わらしべ長者と言えよう。
「戦いは他のものにさせるがよい。汝幸あるオーストリアよ、結婚せよ。
――マルス(軍神)が他のものに与えし国は、ヴィーナス(愛の女神)によりて授けられん。」

当時の有名なラテン語詩がハプスブルクの幸運を見事に表現している。

カールは神聖ローマ帝国皇帝カール五世となり、スペインとそれに付随する海外領土を息子のフェリペに相続させ、オーストリア方面の領土と神聖ローマ皇帝の称号を弟のフェルディナントに譲り渡し、巨大帝国を分割した。スペイン・ハプスブルク家はカール五世の玄孫カルロス二世(1700年没)の代で断絶し、スペイン継承戦争を経て、以後ブルボン家の統治に移る。オーストリア・ハプスブルク家レオポルト一世の末期にあたり、その40年後にはオーストリア・ハプスブルクの男系も断絶する。

二つの王家の男系が40年(僅か一世代差)で両方とも断絶したのは興味深い一致と言える。光格系の男系絶えし後、数十年で伏見宮系の男系が絶える恐れも十分にある。早目の血統保護政策が必要だろう、なんと言っても晩婚・少子高齢化の御時世なのだから。
posted by 鈴之介改め弥生 at 23:40| ☁| Comment(3) | TrackBack(3) | 外国史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月30日

安定した皇位継承の為に 〜ハプスブルクに学べ・中編〜

時代は19世紀末の1889年、フランツ・シュテファンとマリア・テレジアの四世孫、フランツ・ヨーゼフ一世は唯一の男子で、皇太子であるルドルフの死去に伴い後継者を選ぶことになった。皇帝にはフェルディナント・マクシミリアン、カール・ルードヴィヒ、ルードヴィヒ・ヴィクトールの3人の弟がいたが、ハプスブルク家の継承権を放棄しメキシコ皇帝となったフェルディナント・マクシミリアンは1867年に処刑されており、継承は順当にいけばカール・ルードヴィヒの長男、フランツ・フェルディナントが継ぐだろうと思われた。

ルドルフの死により、俄かに継承者として脚光を浴びたフランツ・フェルディナントは、後の君主としての教養に乏しい面があり、それを補う為に世界各国を旅行した。1893年(明治二十六年)8月には日本にも立ち寄り、賓客として歓迎を受けている。継承者としての研鑚を積むフランツ・フェルディナントの結婚は帝国の行方を左右するものであり、ヴィッテルスバッハ家の王女やフリードリヒ大公の娘達など、花嫁候補が幾人も取り沙汰された。

しかし、フランツ・フェルディナントは意外な女性を妻に選ぶ。ボヘミアのホテク伯爵家の娘ゾフィーだった。ホテク伯爵家は旧家ではあったが身分はさほど高くなく、帝位継承者の妃として認められるような家柄ではなかった。皇帝はこの不釣合いな縁組に激怒したが、弟達もフランツ・フェルディナントの弟オットー、フェルディナント・カールも無能で、役に立ちそうなのがこの甥一人とあっては如何ともし難く、いくつかの条件を付けて結婚を認めざるを得なかった。

条件とは、ゾフィー・ホテクは大公妃の称号を得ることがない(王族として扱わない)。二人の婚姻により誕生した子供には帝国領土の継承権を認めない。等のハプスブルク家における「貴賎結婚」のルールを当て嵌めることだった。二人はそれらの条件を承知して結婚したが、ホーエンベルク女侯爵と呼ばれるようになったゾフィーを蔑視する風潮は最後まで続くことになる。

帝国内では正式な妃としての扱いを受けることのないゾフィーも、他国を訪れるさいは継承者の正式な妃として扱われることも多く、二人は好んで外国訪問を重ねることになる。オーストリア・ハンガリー二重帝国の名が示すよう帝国内で厚遇を受けるハンガリーを目の敵にし、妻の出身母体であるスラブに肩入れするフランツ・フェルディナントの言動は、皇帝と甥の軋轢を増す方向に作用した。

1908年に二重帝国に併合されたボスニア・ヘルツェゴビナの首都、サライェヴォへの訪問は両者の反目とバルカンの緊張が高まるなか1914年6月に行われ、大公夫妻は慎重を期して別行動を取りながらサライェヴォへ向かった。しかしサライェヴォでの歓迎行事の予定などは公表されていた為、セルビアの民族主義集団「黒い手」は要所に狙撃手を配置し、夫妻はガブリロ・プリンチプの凶弾に斃れる事となる。世に言う「サライェヴォ事件」である。サライェヴォの銃声を受けてオーストリア・ハンガリー二重帝国はセルビアに宣戦を布告。第一次世界大戦の幕開けとなった。

さて、フランツ・ヨーゼフ一世には皇后エリーザベトとのあいだに4人の子供がいた。長女ゾフィーは夭折。二女ギーゼラはバイエルン公レオポルトと結婚。長男ルドルフはベルギー王女シュテファニーと結婚後一女をなしていた。末娘のマリー・ヴァレリーはトスカーナ大公家のフランツ・サルヴァトーレと結婚。トスカーナ大公家はイタリア統一戦争に於いてトスカーナの領地を失っており、事実上ハプスブルク本家の居候状態で帝国領土の継承権を持たなかった。

マリア・テレジアの国家継承の為国事詔書は改められ、ハプスブルク家は女系相続を認めたはずだったが、皇帝は娘や孫娘を継承者に立てなかったし、娘婿のフランツ・サルヴァトーレの継承権を復活させる等の荒技も用いなかった。フランツ・シュテファンとマリア・テレジアの長男ヨーゼフ二世から始まるハプスブルク・ロートリンゲン家の皇位継承は6世代6人の皇帝が、3度の傍系継承を繰り返し、第一次世界大戦に敗れ帝国が解体されるまで男系男子で続いていったのだ。

「滅びるまで男系男子」潔くて、私としては好感が持てる一例だ。
posted by 鈴之介改め弥生 at 23:45| ☁| Comment(2) | TrackBack(5) | 外国史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月28日

安定した皇位継承の為に 〜ハプスブルクに学べ・前編〜

外国の例と言うと、例の会議では極めて僅かな、しかも女系継承を正当化する例のみを取り上げていたので、このブログでは欧州の王位継承の歴史を取り上げてみようと思う。世界史の授業を思い出しながらご覧いただきたい。

ヨーロッパの王室で日本と一番近い継承法を採用していたのは、ハプスブルク帝国だと思う。ハプスブルク家は初めて神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれた、ルドルフ一世(1218−1291)の頃より、男系男子の継承を続けてきたが、カール六世(1685−1740)は1716年に後継の男児に先立たれてしまった。領土の分割禁止と男子継承を定めた国事詔書を公布した3年後のことだった。カール六世に他に男子はなく、国事詔書を改め娘のマリア・テレジアに継がせるより他になくなってしまった。

皇帝は娘の婿にロートリンゲン公国の後継者であるフランツ・シュテファンを選んだ。ロートリンゲン公国は現在のフランス、ロレーヌ地方にあたり大国とは言えず、ハプスブルクの婿としては釣り合いの取れない縁組であったが、マリア・テレジアが彼をひどく気に入っていたし、皇帝も目をかけていたので華燭の典を挙げるはこびと相成った。

二人の結婚にはフランスの反発もあり、結婚を承認する条件としてロートリンゲン公国をフランスに割譲し、その代償として後嗣の絶えたトスカーナ大公国(現イタリア領)の領主となることが認められた。フランツは祖国ロートリンゲンの領土を放棄する合意書に泣く泣く署名した。しかし、祖国を放棄して入城したウィーンの宮廷は彼を暖かく迎えはしなかった。

マリアとフランツは1736年に結婚してまもなく王女に恵まれた。男子を期待していた皇帝は落胆したが、気を取り直して娘に喜びの気持ちを伝えた。しかし、次の子供も王女だったので失望し、三人目がまたしても王女だったので、今度は見向きもしなかった。女児ばかりの誕生にウィーンの民衆は「王子の誕生を見ないのはフランツ公に欠陥があるからだ」とフランツを批難した。

1740年にカール六世が急逝すると、マリア・テレジアは23歳の若さでハプスブルク家の女王に即位した。王女の国家継承を承認したはずの諸国は揃って異議を唱え、マリア・テレジアに帝国領土でもっとも政情不安定なハンガリーを引き継がせ、他の領土を没収しようとした。その年の暮れプロイセンがシュレージエン(現ポーランド領)に攻め込み力づくで強奪し、「オーストリア継承戦争」の火蓋が切って落とされた。翌年バイエルンがオーストリアの継承権を主張し、神聖ローマ皇帝の位につく。フランスもこれに同調しつつベルギーの割譲を要求。フランスと海外植民地で競い合うイギリスがハプスブルクの側に立った。オーストリア継承戦争は7年間続き、勝利はしてもシュレージエンを失った。

後にマリアとフランツの次男レオポルト(トスカーナ大公)に男子誕生の報を受けたマリア・テレジアは、部屋着にコートを羽織った軽装で王宮と棟続きのブルク劇場に駆けつけ「うちのポルドルに男の子が生まれたのよ!」と観客に向かって声高く叫んだ。劇場では悲劇の上演中だったが、客席のウィーンの人々は芝居の事などすっかり忘れ、後継者の誕生を祝福した。7年にも及んだ継承戦争が国家に残した爪痕の大きさと、正統な継承者を得ることが国家の安全保障にどれほど重要な事かが窺い知れるエピソードだろう。

現代の私達がこの事例から学ぶべきは「野心的な隣国があるなら、なるべく正統な男王を立てるべきだ」の一言に尽きるのではないだろうか。
posted by 鈴之介改め弥生 at 00:23| ☔| Comment(17) | TrackBack(10) | 外国史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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